「自信」に根拠は要らない
そもそも「自信」とはどういうものなのでしょう。
「自信」は「自分を信じる」と書くわけですが、この「信じる」とはどういうことなのでしょうか。
目に見える努力や成果、あるいは周囲からの評価を拠りどころにすることは、
自分の価値についての「保証書」や「鑑定書」を求めることだと言えます。
しかし、もしそういう「保証書」が得られたならば、もはやそれだけで十分に「保証」されているわけですから、
わざわざ「信じる」という大げさな言葉を持ちだす必要はありません。
つまり「信じる」ということは、本来、「保証」や「根拠」を必要としないものだと考えられます。
たとえば「神を信じる」という人は、「神の存在証明があるから信じます」というわけではないですよね。
つまり「信じる」というのは、対象についてのその人の態度や決意を表わす言葉なのです。
よく「根拠のない自信」という言い方が人を揶揄するように用いられることがありますが、
このように考えてみると、そもそも「根拠のない」のが「自信」本来の姿だということです。
「根拠を求めない」ということは、「条件を付けない」ということでもあります。
なので「自信」とは、決してある条件をクリアしたら持てるといった類のものではないのです。
「条件付け」が「偽りの自分」を作り出してしまう
「自信が持てない」と悩む人たちは、幼い頃から周囲の期待に応えるよう努力を重ねたり、
望まれるような人格を演じたりしてきた歴史を負っていることが少なくありません。
望ましい成果をあげれば報酬を与え、期待に反すればペナルティを課す。
このような動物のしつけにも似た「条件付け」を親が行なった場合には、当然子供はその「条件付け」を取り込んで、
望まれるような「偽りの自分」を生きるようになってしまいます。
しかし、必ずしも親がそのような「条件付け」を行なわなかった場合でも、
子供の側が生まれながらにして鋭敏な感性を持っている場合には、
子供が言外に親が期待しているであろうことを察知して、自ら「良い子」「できる子」を演じ、
率先して「偽りの自分」を生きてしまうということもあります。
よく、「子供の頃は手のかからない良い子だったのに……」といった発言を聞くことがありますが、
それは、親に合わせて子供が「偽りの自分」を演じていたに過ぎなかったりするのです。
「正しい選択」よりも「自分で選ぶこと」
幼少時から、本人のモチベーション(動機付け)で物事や進路を選択する十分な猶予が与えられずに、
親などが先回りして選んだ「正しい」ものを与えられ続けてくると、一見人生が順調に進んでいるように見えても、
本人の中に「経験」が積み上がらないというアンバランスが生じます。
これも、後々「自信が持てない」状態を引き起こす恐れのある問題です。
ここで言う「経験」とは、単に何かをするという「体験」とは違って、
本人が自分の考えで選び、実行し、結果もすべて本人が引き受けることを指します。
「経験」においては、良い結果であれ失敗であれ、丸ごと結果が本人にフィードバックされるので、
借り物ではない新たな認識が本人の内部に刻み込まれます。
一方、他からの指示に従って行なわれる「体験」では、
うまくいっても自分自身の成果なのか与えられた指示が良かったのか区別できませんし、
また、結果が思わしくなかった場合には、やり場のない後悔で気持ちが腐ってしまう感じになります。
「どのようにしたらうまくいくか」という情報があふれている現代においては、
「失敗しないこと」「正しい選択をすること」「即断すること」
「後悔しないこと」「回り道をしないこと」「結果を出すこと」
が過度に重視され、本人自身が試行錯誤をしながらゆっくり「経験」することを許してもらえない風潮があります。
ですが、人間の「自信」を生み出すためには、ひとつひとつ自分で選んできたという
「経験」の積み重ねがどうしても欠かせません。
周囲の人間が「よかれ」と思って提供したものが、当人の「経験」を先回り的に奪ってしまう危険もあるということに、
私たちはもっと自覚的でなければならないだろうと思います。
COCOPORT豊中では、あなたが自らの人生を自信をもって選べるようサポートいたします。
⾃⾝と向き合い、⾃分⾃⾝でこれからの⼈⽣を切り開いていきましょう。